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山下慶子の証し

 

幼い頃から、わたしは誰かに温かく見守られているのを知っていました。その方は、親のそれとは異なる愛で、わたしをある方向に導いていました。その当時は、この大きくてなお優しい存在を何と表現したら良いか知りませんでした。

 

 

わたしは中学三年の高校受験の時に、人の言う建前と本音の間で混乱し、傷つきました。そして、大人になればなるほど、この裏をかいて生きなければいけないということに対して絶望しました。さらには、この世で生きていくことは、わたしには不可能に思えたのです。しかし、第一志望の高校に行くことが決まりましたので、このままではいけないと思い、自分の性格を変えようと思いました。それでも、明るく振る舞う自分にもやがて、疲れ果ててしまいました。

そんなある雨の日、いつものようにわたしは自転車で通学していました。信号が青になるのを確認し、自転車をこぎ始めると、横からトラックが曲がってくるのが見えました。それもいつもの光景の一部と思い、わたしは何も気に止めませんでした。そして、トラックが間近に迫ってきていても、何も危機感を感じることはありませんでした。そして、次の瞬間目を開けると、わたしは雨を浴びながら路上に横たわっていました。自分がどこにいるか、もはや分からなくなりました。路上に横たわっている事実を恥ずかしいと感じたわたしは、すぐに起きあがろうとおもいましたが、立つことができませんでした。わたしの足は折れていたのです。その時まで全く痛みはなかったのですが、頭がその事実を把握した瞬間、とてつもない痛みが襲ってきました。

 

救急車を待つ時間がとても長く感じました。そして、自分は死ぬのだと何度となく感じました。救急車が到着し、担ぎ込まれると、わたしは自分の人生は長くないと察し、人生を振り返りました。しかし、まだ自分には"やりたいこと、やらなければいけないこと"がたくさんあると感じました。そう思うと、滝のような激しい感情が生まれました。

"生きなければいけない。"

わたしはこの言葉を何百回と口ずさみました。わたしはこの新しい感情の強さに驚きました。知らずと、意識と無意識の間に希望が顔を覗かせました。

 

わたしは無事、この複雑骨折と呼ばれる手術を乗り越えることができました。退院すると、自分の体が普通に動く事に感謝しました。そして、事故の時に感じた"やりたいこと、やらなければいけないこと"探しに、没頭し始めました。

 

わたしこの世の極みを見たいと思いました。ですから、まず文学からそれを見つけようと思いました。歴史的に名作とよばれる小説、定説のある本を自分の満足するまで読んでみました。それから、自分でも文章や物語を書いて、投稿もしました。そして、次にアートに興味を持ち、美術館や絵画展を自分の行ける範囲で回りました。また、自分でも絵を描いてみました。その次は、映画と音楽でした。たくさんの作品と会い、映画や音楽が伝えたいメッセージを理解したり、時にはただその作品を観たり、聴いたりして楽しんでいました。また、世界中の人の意見や考えにも興味がありましたので、海外のペンフレンドと手紙の交換をすることにも夢中になりました。そうこうしている間に、わたしはキリスト、聖書、ゴスペルから多大な感動を与えられていることに気づき、聖書をしっかり読まなければいけないと感じました。しかし、聖書を読み始めたのは良いのですが、早くも理解に苦しみ、挫折してしまいました。

 

大学に入学すると、必修であるクリスチャンの先生の授業を取るようになりました。その先生は、自分で作ったテキストを授業で使用していたのですが、そのテキストはイエスキリストに関わる内容でした。しかし、それはわたしにも大変よく分かるものでした。そして、その先生がクリスチャンのパーティーを催すということで、クラス全員を招待してくれました。わたしは友人を誘って、参加することにしました。そこで出会った若いアメリカ人の夫婦や同年代のクリスチャンと片言で英語を話す間に、少しずつ楽しくなってきました。そして、パーティーの終わり頃に、キャンプがあるということで、彼らはそれに誘ってくれました。

 

わたしはそのキャンプを境にあらゆるクリスチャンのイベントに関わるようになりました。その一つが、バイブルスタディで、そこで学ぶ教えやこの世と妥協しないで生きたイエス・キリストにどんどん惹かれていきました。そして、イエス・キリストが話す言葉や教えが当然のように自分の一部となるようになりました。それから、わたしの周りのクリスチャンが幸せそうにイエスキリストを目指して、生きているのを見て、羨ましくなりました。そして、いつしかわたしはクリスチャンになるのではないかと意識するようになりました。

 

大学四年になる頃までには、わたしは新約聖書に記されている4人の使徒の福音書を理解するようになっていました。そして、例年通り、わたしはその年のクリスマスキャンプに参加しました。キャンプが中盤に差し掛かった頃、クリスチャンにならなければいけないという押さえきれない衝動に駆られました。理性はそれを否定するのですが、しかしそれ以上の希望と力がわたしを一人の牧師の前に連れてきていました。わたしは迷うことなくクリスチャンになりたいことを告げていたのです。わたしは大好きな牧師の方々の前で、救われることが嬉しく、感動しました。そして、わたしはイエス・キリストをわたしの救い主として告白し、水のバプティスマを授かりました。わたしは水から起き上がると、自分でも信じられないくらいの勢いで泣いていたのです。

 

わたしはその時にやっと幼い頃から温かく見守ってきてくれた方を知り、御父である神様とその御子であるイエス・キリストと一つになれたのです。もはや、この人生はわたしのものではなく、天のものなのです。

 

コリント人への第二の手紙978

ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりしなさい。

神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵をあふれるばかりに与えられることのできる方です。