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2008525

グレッグ牧師によるメッセージ

(彼はカナダ出身ですが、過去10年間妻のサンディーさんと東アフリカにあるウガンダで、ミッショナリーとしてキリストの福音を現地の人々に伝えるために住んでいます。)

 

魂を勝ち取るには

 

私たちの主、イエス・キリストが、道であり、真理であり、命です。

私たちは今まで以上に主イエスのようになることを必要とされています。また、私たちはより魂の収穫に携わり、良い実、そしてより多くの実を生み出す事が必要とされています。自分たちのやり方や意思を主に捧げ、、私たちの生活を主の道、また主の意思に沿う事が大切です。私たちには手本となる聖書があります。

 

マルコによる福音書42224

イエス様は新約聖書の中で、7回も「聞く耳ある者は聞くがよい。」と言われました。私は神のことばがくり返し書かれているものにはより深い意味があると理解しています。

集会の周りを見回しても、私たち一人一人が“聞く”ための耳を持っています。主は私たち全てが“聞ける”事を知っているのです。ここで主が言われているのは、“聴く、耳を傾ける”という事です。主は聖書の中でたいへん明確に、また、簡単に私たちに話されています。しかし、私たち人間がそれを複雑にしているのです。

 

ここで、この地上での生活について話します。この美しい人生を私たちは大切にしています。誰も死ぬことを望まず、皆が天国に行ける事を願っています。主の御言葉のもとで私たちは心を決める必要があります。あなたはこの人生で御言葉に従い、実行しますか、それとも、気をそらしてしまいますか。私たちは神の御心に適った行動をとらなければなりません。そうでないと、私たちの生活は破滅して行くことでしょう。私たちは霊的な戦いの中にいるのです。全ての神の武具で身を固め、戦いに望みましょう。

 

ルカによる福音書95762

これは、主イエスが私たちに話された力強く強烈な御ことばです。なぜ主は父親の喪に伏して嘆いている者に向かって、このような言葉を向けられたのでしょう。「死人を葬る事は死人にまかせておけばよい。」主はここで“霊的な死”を差して言われたのです。しかし私たちは主にあって霊的に生きています。そして主は何が最も重要とすべき仕事であるかを差して言われたのです。つまり、出て行って神の国を告げひろめる事です。

 

マルコによる福音書42324

聴く者は従順です。信仰はだんだん強くなります。主に頼まれた事を行動に移しましょう。“信仰”とは行動の言葉です。私たちが主の言葉に耳を傾け、従うなら、私たちの信仰は強くなります。そして主からの祝福は従順な者に訪れるのです。不従順な子供は何も得られないどころか、返って躾を受けなければいけません。また、従わなかったために主に叱られているのにもかかわらず、それが敵から来る攻撃と勘違いをして、敵を咎めているのです。それを見て主は頭を振り、私たちに問いかけています。「いつになったら私に従うのか。聴いて、従いなさい。そして成長しなさい。」主イエスが言われた言葉は数多くあり、それらに答える機会が多々ある中で、唯一私たちの返事は「はい、主よ。」です。

 

ここで、これらの質問を自分自身に問いかけてみましょう。

「私は神の国にふさわしい者であろうか。私は神の国に入る価値があり、その用意ができているだろうか。そしてその資格があるのだろうか。イエス様に従っただろうか。」イエス様の御前に立つとき主は私に何と言うでしょうか。「あなたは私の意志に従いましたか。」と聞かれるのです。私たちは個人的にこれらの答えを知る必要があります。

私たち個人個人が単一であり、特性を備えています。神はあなた達一人一人に主の意思、望み、そして計画を持っているのです。個人個人によって主の意思が異なっているとは素晴らしい事です。あなたがそれを主に探し求めるのです。あなたは主の栄光のために造られました。「主よ、あなたのために何ができますか。」という姿勢が成長するという事です。あなたは主に与えられた才能や能力を用いて主に栄光を返すために存在しているのです。それが、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして神を愛するという事です。これは最も重要な使命です。耳を傾けて、従い、そして成長しましょう。

 

ヘブル人への手紙1212

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

 

この罪とは悪や否定的な事、邪悪などであり、私たちはそれらを主の御前に差し出し、捨て去らなければなりません。では、ここでいう重荷とは何でしょう。私たちを引き下げる、つまり悩ませるその何かを指しています。ピリピ人への手紙31314にも書いてあるように、私たちは良いものも悪いものも両方、主の御前に差し出す事が必要です。罪と重荷とを捨て去らなければいけません。いったい何が私たちを悩ませているのでしょう。それは私たちを引き止め、また押し留めているものです。

 

成熟した信者として、私たちは罪の宣告( Conviction )と罪の非難( Condemnation )との違いを悟らなければなりません。これは信仰を伸ばす上でとても大切なことです。罪の宣告とは神からくるもので、聖霊様が働いて、私たちが神の御前でひざまずく様に導いて下さいます。罪の非難とはサタンの道具で、私たちを主から遠のける様にとの企みです。罪の宣告は私たちのためであって必要なものですが、罪の非難は私たちと主との間に割り込んでくるもので、その関係を隔てようとします。

私たちは聖書を読み、祈ることが大切だと知りながら、そうしないこともあります。そして、「今日はとても疲れているから教会へは行かない。」など、常に自身を正当化する理由を探しています。罪の宣告から罪の非難へは12週間で移行していくものです。これは私にも起こったことなのでこう言えるのです。私は得に霊的なわけではありません。ですから訓練された生活を歩み、自分自身を主の下へ率いていかなければなければなりません。私も人間ですから、自然とくるものではないのです。私の語る一言一言が罪の非難ではなく、愛からくるように言っています。もしそれがあなたに罪を悟らせたならば、それは御霊が私を通してあなたの心に語りかけられ、チャレンジされているのです。

 

ピリピ人への手紙31314

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

 

パウロははこれらの言葉を語っただけではなく、日々実行に移したのです。彼は有能な哲学者であり、その時代だけではなく歴史上でも、イスラエルの中で最大な秀才の内の一人でした。彼はその人生を主に捧げ、知恵や栄光を捨て去り、主が彼に語ったように、無教育の異邦人(ユダヤ人以外の人々)に御言葉の福音を伝え始めたのです。このように、私たちの考えではなく、神の思考、そして私たちの道ではなく、神の道を第一としなければなりません。

 

これらの聖書の箇所を読み、「私の霊的な目標は何だろう。」と自分自身に聞いてみなければなりません。パウロはここで霊的な事を話しています。良いことも悪いことも主に捧げるのです。カナダやアメリカの繁栄にはきりがありません。私は世界各地に行ったことがありますが、この地は良いもので溢れています。しかし、私たちは良いものをも、御前に差し出さなければならないのです。アブラハムは、良いものを主に受け渡すようにと試されました。アブラハムは神が彼に語った言葉に従い、彼のひとり息子のイサクを手にかけようとしました。彼のただ一つの答えは「はい、主よ。」だったのです。アブラハムは自分の息子の命を受け渡すほど従順だったのです。私たちの神は哀れみ深く、寛容な神です。主はアブラハムからイサクを取り上げることはしませんでした。アブラハムは神の意思に従ったので、彼が持っていた以上に与えられました。

 

妻のサンディーと私は十年アフリカにいますが、初めの頃人々は「大変な犠牲だ。」とびっくりしました。主に身を捧げるのは犠牲ではありません。初めの内はそうも思いましたが、次第にもっと主に渡せるようになりました。、従うことによって喜びが生まれるのです。主に人生を捧げるのは、苦しくてつらい事だと思いがちですが、それとは逆に、主の御言葉に従い行動に移すなら、必要なものはすべて添えて与えられ、またそれ以上にも与えられるのです。主は私たちを苦しませようとしているのではなく、喜び、幸せに満ちた人生を送ることを望んでいるのです。あなたが自分の霊的な目標について熟慮する時、、その考えが御霊と混ざって超自然的な計画が引き出されるのです。それが主に仕える秘訣なのです。

 

「神の武具で身を固めなさい。」とありますが、それは牧師や執事に対して、私たちのために武具を着せるようにと言った御言葉でしょうか。そうではなく、あなたと私に向って言ったのです。あなたが神の武具で身を固めるのです。あなたは個人的に責任があり、これは個人単位から始まるのです。リバイバル(信仰の復興)を求めるのなら、それはあなたから始まるのです。あなたの霊的な未来像、また目標は何でしょう。教育は悪いことではありませんし、家族を持つことも主の計画であって悪いことではありません。しかし、それらがイエス様より大切になってしまう事が問題なのです。私たちの生活は自らの言葉を反映していますか。それとも見せかけであって、どうにかなると願っているのでしょうか。

 

私たちの人生は、はかないものです。明日の保障もありません。実際、私たちは死ぬように生まれてきて、天国に行くために生まれてきたのです。主の再臨が遅れるのなら、何れあなたのための葬儀が行われるでしょう。あなたの家族、また霊的な家族はどのようにあなたを思い出すでしょう。あなたがその人生に関わった事によって、どれだけの人達が感動を受けたでしょうか。他の人の人生に何か違いを起こしましたか。あなたの人生に何か重要な意味がありましたか。何を達成しましたか。

人は名誉、美、知能、認識、財産、富、力、抑制などこの地上のものを得ようとあがくのです。これらのことは、歴史を通して学ぶことができます。それでは聖書の中で、この世を所有(支配)した人々を上げてみましょう。

 

出エジプト記5章―13

パロには敬称があり、彼は大財産、名誉、成功、そして力を持っていて、その町の全員が彼にひれ伏すほどの存在でした。そのパロの人生に登場したモーセはどもる人で、殺人をもして逃げていたような人でしたが、神の偉大で畏敬の念に満ちた力の証を持っていました。モーセはイスラエルの人々と神の間に立ったのです。彼は神の後部を目に留め、謙そんな人でした。「パロって誰だっけ?」と彼の記憶がうすれる反面、モーセの話なら何時間でも話す事ができます。神はあなたの人生について何と言うでしょう。

ダニエル書1章―3

ネブカデネザル王にも敬称があり、その土地の全ての人々が彼にひれ伏しました。しかし、ダニエルと3人のユダヤ人の若者達はそうする事はせず、火の燃える炉の中から生き延び、神の生命を救う力の証を持っていました。

創世記37章―50

パロは世の王で富、名誉、そして力を持っていました。ヨセフは神によってパロの夢を解釈し、やがてリーダー格へと昇進していきました。ヨセフの生き様は今日私たちにとっての力強い証の例です。

 

そこでイエス様は私たちにこの質問を持ち出されました。

マタイによる福音書16:26、マルコによる福音書8:36、ルカによる福音書9:25「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか。」これは力強い言葉です。

イエス様の道についていった人は永遠の世界を獲得したのです。敬称や名誉は何れ消え去っていきますが、証は永遠のものです。私たちの人生は一度しかなく、そして消えていきます。イエス様のために何をしたかだけが、残っていくのです。あなたはこの世の報酬を求めますか。それとも、この世以外の報酬が欲しいですか。もちろん、虫も食わず、さびもつかないこの世以外の報酬でしょう。

「イエス様、私はあなたのために何をしましょうか。」それは生涯の使命感で、これが私たちの目の前にある成長した、素直な質問です。そして、神はどんな質問にも答えと、解決を下さいます。

ハガイ書27 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。

 

イエス様が全ての国々の希望なのです。全ての層をはがして、どん底にきてから気づくのは、皆、真実を願望し、イエス様を望んでいるという事です。

私たちは自分の家族、そして町の塩になれるのです。「私に何ができますか。」と聞き、今その畑を用意しましょう。ある二人の農夫達が雨が降るように神に祈りました。どちらが雨を受けたでしょうか。それは働きに出かけ、畑の準備をした農夫です。

私たちの精神が庭であって、思考が種です。そこには花を植える事も、雑草を植えることもできます。その選択は私たちにあります。

 

天国で誰にも話しかけられないため、孤独な思いをしたいですか。そうではなく、「良い忠実な僕よ、よくやった、」という素晴らしい主の言葉を聞きたいですね。そして、その言葉を主から頂いたとしても、それは私たちが特別というのではなく、ただ任務を果たしたという事です。

 

主の御言葉を読むにわたって、主があなた方の心に話しかけて下さいますように。